新与太随筆

以前運営していた、「与太随筆」をバージョンアップして引っ越してまいりました。目玉企画は、世の中の不条理を褒め倒して風刺する「褒殺風刺地獄」と、枠に囚われずに感化善導出来る話を紹介する「人生の教科書 一日一話」です。

為政者や官僚の倫理観を体現した山口良忠の出処進退

海上自衛隊の事故における毎度毎度の隠蔽(いんぺい)に被害者への恫喝(どうかつ)、そして出処進退(しゅっしょしんたい)のいさぎ悪さ。

それが日々、露呈してきている。

いつもの事と理解しつつ、辟易(へきえき)とするしかない現状は日本に生まれた事を怨嗟(えんさ)に思わざるを得ない状況だ。

そこに、一服の清涼剤となる日本人を紹介したいと思う。

為政者や官僚のいさぎ悪すぎる出処進退しか知らない現代日本人であるが、以前は実際にこういう日本人がいたのである。

爪の垢を煎じて欲しい。

そんな希望的観測は、流石にもう諦めた。

それだけ、日本の為政者や官僚の腐敗は取り返しがつかない状態に陥っている。

しかし、何かを感じて欲しい。

そんな一服の清涼剤となる日本人の名は、山口良忠(やまぐちよしただ)氏。

東京地裁の裁判官だった人である。

現在の日本の司法に正義は存在しない。

しかし山口は正義に生き、正義のために死んだ正義漢だった。

山口は1913(大正2)年、「葉隠精神」で有名な佐賀県で生まれた。

京都大学を卒業後、裁判官になった山口は太平洋戦争の最中、東京地裁に転勤した。

当時は戦局の悪化と共に、食糧難が日々進んでいた。

だから国民は、闇米で飢えを凌(しの)いでいた。

それは、裁判官仲間も同じ事であった。

山口は、闇売買を取り締まる裁判官。

だから、建前を嫌い闇米を食べて飢えを凌ぐ事を拒否した。

そこには、頑固といわれる位の正義感があった。

それと共に、山口には

「経済犯を取り締まるには、経済犯と同じ境遇に身を置き、その窮状を理解しなければ裁けない」

という、職務に対する清廉な思いがあった。

山口には、二人の幼い子どもがいた。

そして、愛妻もいる。

配給は遅配や欠配も横行し、そもそもその基準が庶民虐めで劣悪であった。

しかし、山口は闇米を頑なに拒否した。

政府や皇族への、抗議の気持ちを強く持っていた。

徹底的な管理という搾取(さくしゅ)で、食料があるところにはあった。

と言って闇米の取締りには、温情を施(ほどこ)した。

闇米をする気持ちが、重々理解出来たからである。

食料事情の悪化と共に、闇米の裁判は増えていく。

つまり、闇米を拒否し劣悪すぎる配給だけで細々と暮らしていた山口は体力が着実に減っていく中、日々仕事を増やしておかざるを得なかった。

その窮状に親族は食料を届けに来たが、それも断固拒否。

しかしやはり無理がたたった。

栄養失調の症状が目に見えるようになり治療の勧めがありつつ拒否していたが、地裁の階段で転倒。

栄養失調による肺結核で33歳の若さで死去。

山口の選択が、必ずしも正しいとは思わない。

しかし、現在の為政者や官僚に一番欠落している倫理観がこの山口には如実にある。

山口は、闇米を買える立場にいた。

しかし、倫理観にもとるので断固拒否した。

現在の為政者や官僚のように、私利私欲を貪(むさぼ)る事もせず。

医者や警察や教師と共に為政者や官僚は、倫理観を前提に強大な権力を持つ事を許された職である。

だから倫理観を逸脱すれば、歯止めが利かなくなり専制になるのは時間の問題だ。

日本は、ほとんどの社会がその状態になっているので閉塞(へいそく)しきっているのである。

山口のこの高潔さは、それを改善させる手本である。

為政者や官僚に、この人生を考えさせたい。

しかし、庶民の側もこの人生について考えなければいけない。

為政者や官僚は、私達庶民の血税で雇っている公僕なのだ。

だから、私利私欲に走られて黙っていたら甘く見られて暴走するだけ。

慣れを排除してそれを異常と理解し、職務を遂行させるために本来の為政者や官僚の倫理観を知らなければいけない。

その手本が、この山口の高潔な人生だ。

私も山口の人生をじっくり考えて、為政者や官僚の腐敗を正す為の材料にしたいと思います。
  1. 2008/02/28(木) 22:38:03|
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御用機関と成り下がった日本のマスコミに問いたい、本田靖春の生き様

日本の閉塞し切った状況。

バブル経済が終わり、それに危機感を抱かず自分の私利私欲におぼれ続け、日本を崩壊寸前に追い込んだ日本の為政者達。

主犯は、こういう庶民の救済より自分の私利私欲におぼれ続けた日本の為政者であると言うのは正しいと思う。

ただ、こういう劣悪な日本の為政者と同罪と言っても過言ではない人種がいる。

それは、マスコミである。

日本のマスコミの状況を知っている方は、日本のマスコミを「マスゴミ」という呼び方をする人がいるが、それも的を得ていると言わざるを得ない状況である。

権力の一極集中は、その集団の腐敗を招く。

それが人間社会の世の常。

その為、日本は三権分立という分散する権力機構を敷いている。

司法・立法・行政の三権である。

ただ、この三権は権力の分散を促進するが、権力同士手をつなぎ三権で権力を独占すると言う危険性を孕(はら)んでいる。

それだけ、権力はうまみがあるし、この三権は権力の分散よりも集合して独占しやすい性質があるからである。

ただ、その三権の権力独占に歯止めを掛けれる分野が一つだけある。

それは、マスコミである。

マスコミは、正義を貫き不正や悪を倒すために成立した稼業。

その影響力は計り知れない。

だから、三権分立にプラスして、

「第四の権力」

と呼ばれる事もある。

ただ、日本の今のマスコミはどうであろう。

骨太なジャーナリストもいるが、その数は驚くほど少ない。

それも、日本のマスコミは大手ではないと取材機会も無く信用も無い。

腐敗権力側が、そういう体制を作ったのだが、それに組して日本のマスコミは正義を貫く事や不正や悪を倒すのではなく、腐敗権力側の「御用機関」として、腐敗権力側のマインドコントロールの嘘の情報を垂れ流す事に全力を注いでいる。

だから、今の日本のマスコミの中で骨太のジャーナリストが生息できるのは、大手ではなくマイナーな会社だけになってしまう。

しかし、日本にも以前は大手においても骨太なジャーナリストが確かに存在した。

それも、そんなに遠い昔ではない。

また、それが讀賣新聞に存在したと言う事は、今となっては驚きとしか言いようが無い。

今回紹介するのが、本田靖春という硬骨漢。

1933(昭和8)年に生まれ、2004(平成16)年の師走に71歳で亡くなったジャーナリスト。

早稲田大学政経学部を卒業後、讀賣新聞に入社。

社会部に配属された。

当時の讀賣新聞社会部は、今では全く影も姿も無いが、反骨のジャーナリスト集団として権力層に蛇蝎(だかつ)の如く嫌悪感を抱かせる位の本筋のリベラリストであった。

その風土に勇気と心地良さを感じた本田は、元々備えていた正義感を発揮し権力層の眉をしかめさせる数々の問題作を発表した。

特に有名なのは、

「黄色い血追放キャンペーン」

である。

日本の献血制度を根こそぎ改革したキャンペーン。

昭和30年代当時、日本の献血制度は驚く事に売血で行なわれていた。

しかし、その売血状況は劣悪なものだった。

注射針は使いまわし。

売血常習者に、それを処理させる制度が頑健に作り上げられていた。

金に困る人に売血を促し、安い金で血を買い取る。

その金に困っている人は、安い賃金とはいえ常習的に金が手に入るとそれを常習する。

それが健康に良くないと知りつつ、献血業者に監督官庁の当時の厚生省は眼を瞑(つむ)ってきた。

その売血常習者は、売血を重ねるごとに血液の色が薄くなり黄色くなることから、これを打破して改善しようとした本田が先頭となって戦ったキャンペーンを「黄色い血追放キャンペーン」というのである。

本田は、売血の総本山、東京のドヤ街・山谷に潜り込んだ。

売血常習者と同じような風体に扮装し、売血の実態を探るべくち自ら売血の常習を実行した。

そこは、修羅の世界であった。

売血をしないと、生活が出来ない売血常習者。

そこにつけ込み、安価で売血をさせるモラルの無い業者。

副産物的に、ウィルス感染も頻発。

それを手術で利用するので、血液感染をしてしまう事を食い止める事が出来なかった。

その惨状を体験した本田は、朦朧とする体力の中、その問題を讀賣新聞紙上に発表し社会問題にすると共に、厚生省に乗り込み官僚トップに直談判(じかだんぱん)する日々を続けた。

最初は、頑(かたく)なにそれを拒否していた厚生省も、無名の本田の狂気のような執念に折れていった。

そして、1969(昭和44)年、売血が根絶。

そして、1974(昭和49)年に、現在の世界でも屈指の献血制度が確立されたのである。

数年前は世界でも屈指の劣悪な売血制度であったのに、本田を中心にする正義への厚い思いと執念で数年後には世界でも屈指の安全性を誇る献血制度を確立させるまで動かした。

その運動は、苛烈を極めた。

暴力団の資金源なので、命の危険性も日々感じなければいけない。

それにも増して、国に喧嘩を売る事自体それ以上の危険性を感じる日々を過ごす事になった。

しかし、若き無名記者・本田は屈しなかった。

ただ、その勇気の源泉となった讀賣新聞社会部も状況が変化してきた。

端的に言えば、御用機関と成り下がってしまったのである。

本田は、そんな中では目障り過ぎる。

実績に反し不遇に見舞われるが、安定した大手新聞社・讀賣新聞社員の地位を投げ打ち、退社してフリーとなった。

フリーとなっても、その反骨の姿勢は崩さず数々の問題作を世に出した。

知名度も上がり、現場に立たなくても大金が舞い降りる立場にいながら現場にこだわり、金銭蔑視の姿勢も崩さなかった。

それを本田は自嘲気味に、

「由緒正しき貧乏人」

と自分自身の身の処し方を評した。

それに、嘘偽りはなかったようである。

屈指のジャーナリストなのに、ずっと安い賃貸で家族を暮らさせ、晩節にやっと安い一軒家を購入。

生活も、慎ましやかであったと言う。

その壮絶な生き様は、人生最後の著書となった「我、拗ね物として生涯を閉ず」である。

最終回を残して、本田は天に召されてしまう。

その間、本田は糖尿病による両足切断、右目失明、肝臓癌、大腸癌に犯されしばしば連載は中断するが、全くへこたれず魂の乗り移った文章を書き続けた。

渾身の文章は、鳥肌が立つ。

本田入社当時の讀賣新聞社会部は、上に噛み付く事を由とされた本質ジャーナリズム魂が流れていた集団であった。

下のものが上のものの不正や横暴には、警笛を鳴らす事が一人前と言われた。

一番忌(い)み嫌われたのは、媚(こ)び諂(へつら)う事。

現在の日本のマスコミの体たらくを知る私達としては、この本田及び当時の讀賣新聞社会部の清廉な反骨心は潔く見えるが、これこそが真のジャーナリズムそのもの。

その為に、成立したのがマスコミである。

それを少しでも逸脱したり権力の御用機関となったら、庶民は奴隷と扱われ人として生きれなくなってしまう。

そんな状況が、現在の日本なのである。

今の日本に、人権はあるだろうか?

冷静に考えれば、そんなものは存在しない。

つまり私達日本の庶民は、日本の為政者やマスコミの奴隷。

悲しいけれど、それが真実なのである。

さらに、その日本国はアメリカの忠犬にして奴隷。

身分に貴賎は悲しいけれどこういう風に存在するが、人間性には貴賎は存在しない。

ただ、こんな日本にも身分の貴賎を廃止できる力が存在する。

それが、マスコミである。

本田のような真のジャーナリズムを持ったジャーナリストが何人も現れれば、それも夢ではないと思いたい。

本田は「黄色い血追放キャンペーン」の潜入取材での売血で、注射針の使いまわしでC型肝炎に感染し、その原因となった疾病のオンパレードに苛(さい)まれた。

それを、本田は自覚していた。

しかし、本田は信念を貫き通した。

正義を問うために。

先程も紹介した未完となった本田の遺作「我、拗ね物にして生涯を閉ず」の一説で、本田の弟子を自認する大谷昭宏氏のHPにても紹介されていました。

それが、本田の生涯を端的に言い表し、現在の日本の腐敗し切ったマスコミに考えて欲しい内容だったので、載せて終わりにしたいと思います。

私は世俗的な成功より、内なる言論の自由を守り切ることの方が重要であった。私は気の弱い人間である。いささかでも強くなるためにこの時、自分に課した禁止事項がある。それは、欲を持つなということであった。

 欲の第一に挙げられるのが、金銭欲であろう。それにと次ぐのが出世欲ということになろうか。それと背中合わせに名誉欲というものがある。これらの欲を持つとき、人間はおかしくなる。いっそそういうものを断ってしまえば怖いものなしになるのではないか。

 いかにも私らしい単純な発想だが、本人としては大真面目であった

どうであろう?

これがジャーナリズムであり、これが弱い立場の庶民を守り権力を独占し不正濫用しがちな三権に警笛を鳴らせる「第四の権力」マスコミの真の生き様。

低調な日本の行く末を握っているのは、マスコミ。

高軌道になるのも低軌道になるのも、マスコミの信念次第。

「日本を良くしたい」

そう思うのであれば、この本田の生き様を見よ。

そして、この生き様の爪の垢を煎じて邁進する。

それで無ければ、日本のマスコミは日本崩壊の戦犯そのもの。

これを実行できなければ、太平洋戦争を手助けした御用マスコミと何ら変わりなく存在価値の無い「マスゴミ」と言われても文句は言えない。

本田の生き様が、現在の日本に警笛を鳴らしている。

それを理解して、日本のマスコミは身を処して欲しい。

私は、日本が再び良い国になって欲しい。

その為に、本田のような真のジャーナリストが誕生する事を切に願いたい。

  1. 2008/02/04(月) 18:17:19|
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為政者に学ばせるべき上杉鷹山の人徳

私は今年で34歳だが、生まれてこの方、日本のニュースで政治家や官僚などの為政者の犯罪のニュースが流されない時期はなかった。

私利私欲の為だけの、処世。

陽明学的に言えば、

「上が上ならば、下も下」

なので、若者がどうだろうと社会がどうだろうと為政者がそのような悪態ならば、それは全て為政者の責任である。

そこで、そういう為政者はもちろん私達庶民も為政者の理想像として見るべきなのが、江戸中期の名君として名高い米沢藩藩主・上杉鷹山(1751−1822、享年72歳)ではないだろうか。

鷹山の功績は、世界中に鳴り響いている。

「経済一流、政治は二流」

と言われる現在の日本。

実際は、この評価はバブル時代までの日本の評価のようなものなので、頼みの経済も二流に落ちたと捉える人もいるし、政治は二流はおろか三流、四流に落ちぶれたと言っても何ら過言はない。

ただ鷹山は、200年近く前に生きていた人であるが、今の日本のどの政治家よりも優れ、経済人としても一流である。

つまり、日本の政治は歴史とともに衰退したのは歴然とした事実。

ただ、200年近く前には世界でも超一流の政治化が実在したのである。

その手腕及び処世術は、現在の世界の政治家からも尊敬されているのである。

それが、この鷹山なのであるが、その所以を紹介しようと思う。

鷹山は1751(寛延4)年、高鍋藩主(秋月種美)の次男として生まれた。

高鍋藩は、小さな藩であった。

その次男だから、決して恵まれた少年時代を送ったわけではない。

ただ、父が運営する藩政は後に名君と言われる鷹山の実父らしく、清廉を基礎にした治世であった。

それを眼に焼き付けた鷹山は10歳の時に実母方の祖母の生家である米沢藩の跡取りに白羽の矢が立った。

米沢藩は当時、戦国最強の武将と名高い・上杉謙信を祖とする名家で15万石の大藩であった。

上杉家は、徳川幕府にとっては予断を許さない眼の上のタンコブだった。

武力・経済力・そして精神的な強さも伝統であり、それが脅威であった。

その為、江戸から遠ざけるように転籍を繰り返させられた。

しかし、そこで名門意識が災いとなった。

120万石あった石高も、米沢藩に移った時は八分の一の15万石にまで激減。

それにも関わらず、120万石の時と同じ程度の家臣を養っていた。

そして、当時の米沢藩の借金は二十万両。

されど米沢藩の当時の収入は三万両強。

自ずと財政事情は、困窮してくるし破綻はすぐそこであった。

されど、名門の意識が災いし藩政はそのプライドを堅持するかのごとく浪費を繰り返していた。

米沢藩主となった鷹山は、それを見て大幅な改革を断行する事を決意した。

節約は、当たり前である。

ただ、それを庶民に強いるよりまずトップである自分自身が示した。

名門によくある儀礼的な物の中で、無駄なものは縮小や廃止。

藩主自身の生活の衣食住を倹約し、往時の七分の一まで減額させた。

それを見た庶民は、意気に感じた。

当たり前である。

現在の日本程ではないにしろ、当時の日本の為政者も私利私欲で無能な連中ばかり。

幕府ですら困窮を極め、どこの藩も困窮しているような状態にも関わらず、何の手も打たない為政者ばかりであった。

手を打つと言えば、弱い立場の庶民から年貢を搾り取るだけ。

年貢を税金と変えれば、現在の状況と驚くほど似ていると思うのは私だけだろうか?

そんな中で、まず自分の身を賭す姿をトップが見せれば庶民の民意が付いて来るのは当然と言える。

その中で、農政改革、産業改革、学制改革を三本柱に断行した。

まず、地場の物で財源となりそうなものを奨励。

寒冷地の米沢藩で、適した殖産興業を考え楮(こうぞ)、漆(うるし)、紅花(べにばな)、桑を奨励。

そして、それが枯渇(こかつ)しないように、その特産物の植え立てをも奨励し永続的な特産物にしようとした。

そして、庶民にやらせるだけでなく鷹山自身も城内で植樹を実行した。

その一つが、有名な米沢織や米沢紬(よねざわつむぎ)につながり現在も高い評価で受け継がれている。

ただ、そうなると体が思うように動かなくなってきていう老人は足手まといに成りかねない。

実際、姥捨ての伝統があったという。

その老人達にも生き甲斐や、老人の必要性を認識させ老人の居場所を作ると共に、それを米沢藩の財政を潤わせる事になる事業を奨励した。

その福祉の充実は、今でも眼を見張るものである。

それが、名高い米沢鯉の養殖を任せたのである。

鯉は、体を構成する三大栄養素の一つであるたんぱく質のたんぱく源にもなり、庶民の健康にも好影響を及ぼし、鷹山の庶民を考えた政治は功を奏していった。

これらで、悪名の高い天命の大飢饉をも乗り切った。

全国に猛威を振るった飢饉も米沢藩には、餓死者が出なかったという。

凶作が頻繁に起こる当時、冷害を見越して鷹山は農民に大麦栽培を奨励。

大麦は、酒や醤油や味噌の原料となるもので、冷害に強いものである。

大麦の種が無い農民には、米沢藩が低価格で払い下げていたと言う。

そして備蓄も実行。

しかし、古株の重臣から反旗を翻させられた。

名目上は、なりふり構わぬ藩政改革は名門・上杉藩の名を汚すものだと言うものであったが、実情はそれまで受けていた自分の利権が手に入らなくなったからである。

もちろん、それは打破された。

庶民は、目線が庶民に向いた政治をする藩主・鷹山支持に向いていたし、他の家臣ももう一度生き返ろうと、今までの醜態を洗いなおそうと主人に懸命についていった。

農民も武士も藩主も関係なく、藩の為に働く。

それにより年齢関係なく生き甲斐を得て生活も安定する「自助」。

そして藩主自ら、弱いものを助け年長者を敬う姿勢を見せる事で、飢饉などの眼に見える形でなくとも助け合う「互助」。

そして、強いものが弱いものを労わり助ける「扶助」。

この三つの「三助」で、米沢藩には心身両面共に充足した住み心地が良く、母国愛が芽生える理想郷のような空気が流れていった。

その精神面を、更に充実させるために藩校・興譲館を再興させた。

興譲館では、身分を問わず学ぶ機会を与えた。

学問を分け隔てなく教える事で、藩全体に道徳感を浸透させて未来永劫(みらいえいごう)、米沢藩の体制が道徳感を基本に運営し、庶民も道徳感を基本に生きていける理想郷をを作り出そうとしたからである。

貧しさの為に、赤子の間引きが横行していた。

その為に鷹山は、間引きを禁止したが禁止するだけでなく、前記した改革により庶民を潤わせて、道徳を教え込むことで道徳に反する事を自重させるような流れを作った。

また、鷹山には、こんなエピソードもある。

正妻は、前藩主・重定の長女・幸姫(ゆきひめ)。

この幸姫が、脳障害の持病を持っていた。

その為、幼子のような幸姫に対し鷹山は徹底的に愛(いつく)しみ尽くした。

そこには慈悲が溢れていたために、重臣達の更なる尊敬をも集めていった。

そして鷹山35歳の時に、潔く家督を前藩主・重定の次男の治広に譲った。

鷹山の実子がいたのにも関わらずである。

その潔さには、現在の為政者の出処進退の劣悪さが目立って鼻に付く。

質素倹約を旨として、自ら実行。

民を第一に考えることを実行し、それを実行した。

精神だけでなく、財布の中も潤わせ,生き甲斐をも作った。

また、背中で見せる事を重視した鷹山は、自分を律し続ける人生でもあった。

文武両道を実践し華美を嫌い、愛民の姿勢を貫いた。

その生き様は、かの有名なJ.F.ケネディー大統領やB.クリントン大統領が、日本人の政治家で一番尊敬する偉人として名を挙げたという。

努力し続け律し続けた人生。

権力を握ったものは、自由を謳歌するためではなく自由を与えるのが仕事。

現在の為政者は、そこが根本的に間違えている。

これが本当の政治であり、為政者の仕事である。

私達庶民も、騙されずにそれを理解し為政者を監視していかなければいけない。

私達の、なけなしの血税で養う為政者なのですから。

そして、これから為政者を目指す方には常にこの鷹山の人生を胸にしまっていて欲しい。

私達庶民も、この鷹山の生き様を胸にしまい、弱いものが不遇を味合わなくて済む理想郷を目指すために、道を外れた為政者を見つけ出し責任を取らす事が出来るようにしましょう。

「庶民に心配されるくらいに、為政者は質素を貫け」

と西郷隆盛が言った通りに、それが信頼を勝ち取る。

信頼は、下手な経済論よりかは有効な増資方法である。

為政者は自由を謳歌したら失格。

不自由にならなければ、本物ではない。

最後に、鷹山が残した言葉について考察したいと思う。

まず家督を治広に譲った時に送った教えの「伝国の辞」の三か条、




一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべきものにはこれ無く候

(国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはならないものです。)

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候

(人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです。)

一、国家人民の為に立たる訓にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

(国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられている国家や人民ではありません。)




この三か条は詭弁(きべん)ではなく、鷹山が正に人生を賭して実行してきた政治である。

果たして、日本の現在の為政者でこの三か条の一つでも実行している人はいるだろうか?

まず、いないといのが現状でしょう。

そして、一番有名な鷹山の言葉、

 成せばなる

成さねば為らぬ何事も

成らぬは人の為さぬなりけり

(やろうと思えば何でもできます。 できないのはやろうと思わないからです。
 やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。)




正にその通りですね。

現に実行してきた人の言葉だから、非常に説得力がある。

日本の堕落し切った為政者にも振り返って欲しいと共に、私達庶民にも数多くの気付きを抱かせてくれる名君・上杉鷹山の人生。

鷹山の人生を振り返る事自体が、一冊の教科書以上に学ぶ事の多い偉人である。

  1. 2008/01/28(月) 21:05:31|
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人皆知有用之用而莫知無用之用也 荘子

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

年始と言う事で、それに相応しい話題を書かせていただきます。

年始と言うと、誰しもが思いを新たにこの一年を有意義なものにしようと少なからず意気込むものであると思います。

私も毎年、意気込みだけはそう思うわけです。

しかし、年末になるとその意気込みに反し消化不良の結果に終わりそうな事に対して自己嫌悪に陥る事が多い。

ただ、人生と言うのはそうそう満足感に浸れる時期と言うのはそれほどない。

常に、目に見える形で前進できる事は人生の中で少ないと言うのが現実なのである。

この割りきりがあれば、焦らず一歩一歩歩んでいける。

しかし、私もそうだが無性に焦ってしまい、かえってそれが停滞への原因になってしてしまう人も多いはずだ。

そういう方々に、年始に送りたい言葉が、




「人皆知有用之用而莫知無用之用也」




という中国の思想家・荘子の言葉である。

意味は、人みな有用の用を知りて、無用の用を知る無きなり。

つまり、一見無用だと思われるものの中に、有用なものがあると言う真理である。

人は、有用なものにだけ眼がいってしまう傾向が強い。

「10年一昔」

と言われた時代から現代は、

「5年一昔」

と言われるスピードアップした時代を迎えている。

だから即効性を求めるあまり、有用なものだけに眼がいってしまう。

しかし、荘子のこの教えは無用なものこそ意味があると言う事を教えているのである。

正月休みも終焉に近づいている方も多いだろう。

私ももう少しである。

そういう時は、こういう焦りが非常に出やすい。

特に、日本人は長期休暇にこういう焦りを抱きやすい人種と言われている。

西洋人は、バカンスという長期休暇を楽しむ習慣がある。

しかし、日本人のように焦燥感に苛まれる人は少ないと言う。

それには、西洋人にはこの老子の、

「無用の用」

の割り切った考えが身についているからであると思う。

休暇を、思いっきり楽しめないようでは仕事なども集中できない。

何もしない事に、焦りではなく価値を見出せるようになる事でこの真理を得る。

今後の構想を立てるのは良いとは思うが、長期休暇に焦燥感に苛まれるのは、休暇も楽しめず、休暇明けの仕事への活力も充満できない。

無い無い尽くしになってしまう。

だから、この老子の教えを胸に、まだ正月休みがある方は、残り少ない正月休みを思う存分楽しみましょう。

そして、人生においても一見無用と思える事への価値を見出して、焦らずやっていく事も心掛けましょう。

短期的な視野も必要ですが、長期的な視野も至極大事。

冷静に意気込んでこの一年を送りましょう。
(2008年1月2日)

  1. 2008/01/14(月) 13:13:57|
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イソップ童話「北風と太陽」に学ぶ人心掌握術

紀元前六世紀頃にイソップによって作られたイソップ童話。

実は、その中には多くの教えがある。

童話というと何か、子どもの読むものという感覚があるが、イソップ童話には現代でも通じるイソップという先人の知恵がいっぱい詰まっている。

その中で、今回紹介したいのは「北風と太陽」。

まず、簡単にその物語を紹介しよう。

ある日、力自慢の北風と太陽が力比べをしようと話し合います

そこに,ある旅人が歩いていました。

北風は太陽に言いました。

「あの、旅人の厚いコートを脱がした方が勝ちにしよう」

と。

先攻は、北風。

旅人のコートを力づくで剥(は)ぎ取ろうと、渾身(こんしん)の力で北風を旅人に吹きかけます。

しかし、旅人はあまりの寒さにコートを被(かぶ)り、強い風に負けずコートが飛ばされないように手で押さえ始めました。

それに負けじと、北風は旅人に向けて吹きかけますが、旅人はコートを更に押さえるばかり。

力を使い果たした北風は疲れきり、諦めます。

次に、太陽が旅人に挑みました。

しかし、太陽は無理をしませんでした。

太陽は、旅人を暖かい日光でポカポカと照らします。

そうすると、強い北風ではあまりの寒さに頑(かたく)なにコートを着ていた旅人が、そのコートを自ら脱ぎ去って裸になり、近くの川に飛び込んだのです。

勝負は、無理矢理コートを脱がそうとした北風ではなく、コートを脱ぐように仕向けるようにした太陽に勝ちました。

というような物語です。

その教訓とは何か?

つまり、

人心は、強制では動かないし反対に拒否反応を起こすが、自ら動くように仕向ける事で自動的に心が動いて思い通りの行動へと導く事が出来るという教訓である。

ここ数日は、民主党の小沢一郎代表のプッツン辞意表明から、舌の根も乾かない内の辞意撤回の醜態が世間を騒がせている。

小沢代表は、自民党時代から田中角栄 元首相の秘蔵っ子として若い時から権勢を揮い、「壊し屋」として唯一無二の政治的腕っ節を持った政治家という幻想をも維持して神格化されてきた。

今回の事で、小沢自身の自滅で、脆(もろ)くも国民にもその幻想の化けの皮が剥がされた。

時間は戻せないが、もし誰かがプッツン辞意表明前の小沢の近くにこのイソップ童話の「北風と太陽」の話で諭してあげれる人がいれば、ここまで維持してきた化けの皮が剥がれる事はなかったと思ってしまう。

参院選で、自民党をぶっ壊しかけた。

その勢いがまだまだあり、年明け後に噂される総選挙での政権交代も夢ではない時であっただけに何と惜しい事をしたか。

それに、野中広務 元官房長官が国政にいない今。

屈指の政治的腕っ節を持った豪腕であるという幻想を維持したまま政治生命をまっとう出来たはずなのに、今回の醜態で化けの皮が剥がされ晩節を汚してしまった。

どこの世界の指導者や権力者もそうである。

力があるから、トップに立ったわけではない人も数多い。

幻想で、トップに立った人の何と多いことか。

それを維持しながらその世界でまっとうする。

その為には、「北風と太陽」の精神が必要である。

幻想でトップに立とうと、勢いでのし上がれただけで、小沢代表のように自滅で足を引っ張ってしまったトップも数多く存在した。

それを免れるためには、自ら勉強するしかない。

トップに立ってからの勉強でも、遅いということはない。

その謙虚さが、カリスマ性を増す事の出来るトップへの階段を駆け上がれる事ができる切符である。

もちろん、これからトップを目指す人には反面教師として、そして訓戒として覚えていただきたい。

強制によって人は動く時もある。

しかし、人はそういう窮屈さで動いたとしても心は動いていないものである。

それに、強制によって動いた心には自主性が育たない。

その為に、その人自身も本当の実力はつかないし、集団としても自主性の無い人任せの集団になってしまう。

それは、真の実力を築く事は出来ない。

また、強制による人心掌握は、動くように仕向ける方法より、時間は総体的に短い。

しかし、効果は自ら動くように仕向ける方法の方がある。

だが、時間がかかる。

その為には、待つ事を覚えるしかないのである。

信頼して信用して、待ち続ける。

人は信用や信頼に応えようとする習性があります。

一度、信用や信頼に応えて、その関係が築かれるとそれは強制による関係よりも、それは強固になります。

これは、古くて新しい教え。

肝に銘じて、その先人の教えを甘受いたしましょう。
(2007年11月9日)

  1. 2008/01/14(月) 13:12:15|
  2. 人生の教化書・一日一話
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Author:善導義塾塾長
1974(昭和49)年生まれ。日本体育大学卒で現職は御荷物三流ドアマン。趣味は、
・乱読(遅読派)
・アジテーション(扇動)
・権力の不正濫用に抵抗する事
・金をかけないトレーニング(鉄棒・平行棒を中心とする自重トレーニング、プライオメトリックス、SAQ等)
・日帰り低山登山(締めは立ち寄り湯)
このブログを基盤に、権力の腐敗を監視糾弾する為の執筆活動及び政治活動・社会運動に没頭したいというのが夢です。

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